その日、一人の住職が東本願寺と決別した−−。
平成15年3月9日、岐阜県にある真宗大谷派末寺・S寺二十一世住職・水沢勝海師(親鸞会会員)は、東本願寺大垣別院にて僧籍を返上した。
「寺を出て、これからは親鸞聖人のみ教えに純粋に従っていく」
水沢師は、教務所できっぱりと言い切った。
応対した教務所長は、一瞬、驚いた様子を見せたが、本山を批判し続けた水沢師の退場を、内心、歓迎しているふうでもあった。
「二度とこんな所へ来るまい」
大谷派と決別し、別院の門を出た時、永年の呪縛から解き放たれた気がした。
外の空気はすがすがしく、心なしか空の青さが目にしみた。
「今の大谷派は、浄土真宗の看板を掲げながら、実態はもはや別物。蓮如上人の教えを『古い』と切り捨て、清沢満之らの近代教学で、変質してしまった」
と、水沢師は嘆く。
覚如上人時代から650年の伝統を持つ由緒ある寺を守り続けた水沢住職が、なぜ寺を出なければならなかったのか、その真相を取材した。
水沢住職一家が寺を出た直接の原因は、S寺の本尊問題である。
「親鸞聖人のみ教えに従い、名号本尊に替えたい」
との申請は、本山に拒否され、昨年の報恩講では、門徒との話し合いも決裂した。
だがその背景には、すでに10数年に及ぶ、本山との教義上の対立があったのである。
水沢師は大谷派の近代教学を、
「親鸞聖人のみ教えと異なる」
と、盛んに警鐘を鳴らし、内部から正面切って本山に異を唱えた、たった一人の僧侶だった。
水沢氏は、大谷派教学のゆがみの根底は、「後生の一大事」の誤った解釈にあると道破し、この1点を、『中外日報』紙上で40数回にわたって追及してきた。同紙に掲載された論文には、次のような見出しがつけられている。
○真宗大谷派の教学を憂う
なぜ説かぬ
「一切衆生必堕無間」
○「後生の一大事」
全く異解釈
教学乱れる大谷派
○現在の大谷派教学の誤り
後生説かねば仏教に非ず
水沢師は論文の中で、
「寿終わりて後世に尤も深く尤も劇しくして、その幽冥に入りて生を転じて身を受く」
「身こわれ、寿終って後、悪趣に堕す」
と、『大無量寿経』等の根拠を挙げながら、釈尊が死後の一大事を説かれたことを明確にした。
さらにこれらの仏説が信じられず、死後など説明できないと、ほおかぶりしてしまったところに、近代教学の誤りの出発点があると指摘している。
昭和63年、宗務総長に「後生の一大事」の大谷派の解釈について疑問点を問う。
これを受け、同派の機関紙『同朋新聞』6月1日号に、「後生の一大事」と題した一文が掲載された。大谷派を代表し、玉光順正氏が執筆したものである。
「蓮如上人は『御文』の中で「後生の一大事」という。
後生とはいうまでもなく「死後」ではない。(中略)「後生」とは「後念即生」の略だともいわれる」。
さらに同氏は、
「後生の一大事を心にかける」とは、次のようなことと主張した。
「「今を仏道の歴史として生きる」といっていいだろうか。いいかえれば過去と未来に責任をもちつづけながら現在を生きるということである。それは子どもや孫たちの世代にどんな時代社会を贈ろうとするのかということであり、親や先祖の時代社会に為してきたことについて、どう責任を担うのかということである」。
大谷派の甚だしい脱線に落胆し、本山まで行き、参務に直接、異議を唱えたが受け入れられなかった。
教義上、相いれないのを理由に、同年、水沢氏はS寺の大谷派離脱を図る。
しかしこれは、四方八方に妨害の手を広げた宗務当局側の術策で、あと一歩のところで頓挫する。やむなく大谷派内で、真実開顕を試みるしかなかった。
その後も、平成4年、8年と宗務総長はじめ、全宗議会議員、董理院、教学研究所長らに、後生の一大事についての論文を送付するなど、心ある同朋を求め、内部から懸命に覚醒を促したが、ほとんど馬耳東風。
ようやく届いた董理院・H氏からの返事は、
「私は、そうした法門論議をまったく好まぬ人間であり、ただ親鸞聖人のお教え一つを聞かせて頂くだけの者です。『後生』が死後であるとご了解であれば、それはそれで、趣きの深い味合いであると存じます」
という気の抜けたものだった。
真実を叫べば叫ぶほど、孤立する現実を味わう。本山にとって、水沢住職は目の上のこぶでしかなかった。
大垣教区の組長の立場も、理由を告げられぬまま降ろされ、立場は日に日に厳しくなっていく。報恩講での名号本尊事件は、そんな渦中に起きた。
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