実圓氏が身をもって示した説法を無にせぬためにも、後生の一大事を、公然とねじ曲げる本願寺を、見過ごすことはできなかった。
教務所が、「このままでは、S寺が親鸞会に乗っ取られる」と警戒し、陰に陽に妨害を繰り返したのは前述のとおりである。
S寺の大谷派離脱は、教務所の術策で見送られ、水沢氏は一人、内部で真実開顕するしかなかった。
年齢を思うと、S寺の後継者を決めないわけにはいかない。
だが、長男の勝真氏に自坊を継がせるには、本願寺教師の資格が必要だった。
勝真氏は、「大谷派の教義安心には従わず、真実の仏法を説かせてもらえるならば」との条件付きで、教師試験を受けることにした。
だが、寺を真実の仏法の道場とするには、まず、御本尊を、木像から御名号に替えねばならない。
これを宗務当局に認めさせることは至難の技だった。
水沢氏は、何度も本山に問い合わせてきたが、決まって返事は、
「木像、絵像、名号いずれも意趣があり、これが正しいというものではない。大谷派の末寺である限り、従来どおりの木像で問題はない」
というものだった。
大谷派という組織の内にあっては、
「当流には『木像よりは絵像、絵像よりは名号』というなり」
との蓮如上人の重大な御心は、公然と踏みつけられてしまう。
業を煮やし、昨年、S寺の報恩講で、水沢勝真講師は2日間、御名号こそが真宗の正しい本尊であると、直接、門徒に訴えた。説法の中で、親鸞聖人ご真筆の御名号を掲げた時である。
示し合わせたように門徒数名が、勝真講師を取り囲み、
「それは親鸞会の本尊だ。本願寺の本尊は木像様だ。わしらは親鸞聖人の教えなんかどうでもいい。本山に逆らうなら出て行ってくれ」
と怒号。
勝真講師も、
「親鸞聖人の教えなんかどうでもいい、とは何事ですか!そんな者こそ、今すぐここを出て行きなさい」
と、応戦したため、報恩講が紛糾した。
教務所は、このやり取りを見逃さなかった。後に水沢住職は呼び出され、事情聴取を受ける。
「お宅のご子息が、寺の本尊をいきなりお名号に替えると言い、『従えない門徒は寺を出て行け』と、暴言を吐いた事実をお認めになりますか?このままでは宗憲(大谷派内の法規)に触れますよ」
慇懃無礼な口調だった。
「で、これからどうされます。教務所にたくさん苦情が来ていますが、収拾する手続きをしますか?」
敵対者を懐柔したり、出て行かせる交渉は、永年、紛争に明け暮れた大谷派僧侶のお家芸なのだろう。
寺ごと独立の可能性はすでに断たれている。残された道は、本山におとなしく従順し、このまま住職として残るか、住職を捨て寺を出るか、どちらかだった。
「今の本願寺は間違っている。私は本当の親鸞聖人のみ教えに従いたい」
だが、先々を考えると煩悶せざるをえなかった。家族で高森顕徹先生のビデオご法話を聴聞した時、
「流刑に遭われ、身は滅ぶ寸前でも、一向専念無量寿仏を叫ばれる親鸞聖人の心は常に盛んだったのです。これがすべての人が求めねばならない真実の信心の相なのです」
と先生は叫んでおられた。
住職の心は決まった。
「そうだ、寺を出よう」
生活より、世間体より、もっと大事な親鸞聖人のみ教え、信仰に生きようとの英断だった。
勝真講師は、この事件を振り返る。
「寺を出る。これが最善であるのは分かっていました。ただとても勇気の要ることで、ためらい続けてきたのです。今回、六字の御名号を掲げた瞬間、一気にこんな展開となりました。これも六字の妙用なのか、仏智のなさしむるドラマと、感謝せずにおれません。真実開顕の戦いはこれからです」
S寺の事件は、これで終わったのではない。
「本山のやり方にはついていけん」
「本当の教えを伝えてくれる方だったのに」
門徒の多くは憤り、住職について寺を出た総代もあった。
報恩講での事件を目撃した人の中には、「教えなんかどうでもいい」と叫ぶ者たちが寺を仕切っている現状を嘆き、親鸞会に入会を申し出る人もある。
空き寺となったS寺の門前に立つと、にわかに風がうなりを上げ、雨は激しく打ちつけた。
本堂の黒瓦から止めどなく落ちる雨だれは、歴代住職、門信徒の悲憤の涙なのか。
だが、仏智は不可思議である。いつの日か必ずこの寺に、六字の御名号が安置され、真実の仏法が説かれる日が来るだろう。
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