「こんなに苦しいのに、なんで生きなきゃいけないの」と問われて、明快に答えられる人がどれだけあるでしょう。まさに、「人生の根底に無知である」と言うしかありません。
目の前で自殺しようとしている人に、「死んではいけない理由」として、多くの人はこう言います。
「きっといつか、いいことがある」
「必ずだれかが分かってくれる」
朝日、読売を初めとする大新聞の自殺防止キャンペーンを読んでも、大概は、これか、これに類似した内容です。
確かに、一時的には、これで思いとどまるかもしれません。その意味で、尊い命を守るには、とりあえずは有効な言葉です。
しかし、これらの人が言う「いつかあるかもしれない、いいこと」や「どこかで会えるかもしれない、自分を理解してくれる誰か」というのは、しばらくの心の支え、希望や生き甲斐にはなりえても、人生の目的でないことは明らかです。
なぜなら、いいことや楽しいことも、やがて色あせ、永続するものではありません。自分を理解し、必要とし、愛してくれる人も、完全に理解してくれるわけでも、永遠に愛してくれるわけでもないからです。
今日のいじめ自殺で問われている本質は、一時的に自殺を回避する「目標や希望、生き甲斐」ではなく、まさしく「苦しい人生、なぜ生きる」の人生の目的なのです。
人類はこれからも、豊かで快適な生活をめざして、政治や経済、科学や医学、あらゆる人智を尽くして「どう生きる」に鋭意努力するでしょう。苦しいときには、芸術に癒され、疲れたらスポーツに活力を得、寂しいときには出会いを求め、「さあ、元気に行こうじゃないか」と心を奮い立たせ、生きていこうとするでしょう。
しかし、心の中から「元気になって、お前はどこへいくんだい」というささやきが聞えたら、なんと答えましょう。
人類が存続する限り、「なぜ生きる」の疑問は心の奥底に内在し、いじめや自殺など、折に触れて顕在し、どうしても答えねばならない命題として、一人一人に立ちふさがる。
「人生の目的はあるのか、ないのか」
「生きる意味は何なのか」
容易に答えの出ない、この疑問に、親鸞聖人のメッセージは、なんと力強く、温かく、限りない勇気を与えてくれることでしょうか。
人生の目的の厳存を表明された親鸞聖人の明文は多いが、主著『教行信証』の冒頭には、こう断言されています。
「難思の弘誓は難度の海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」(教行信証総序)
「弥陀の誓願は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しく渡す大船である。この船に乗ることこそが人生の目的だ」
古今に類のない、全人類への鮮やかな宣言でありましょう。
ところが、その親鸞聖人の教えを説くべき立場の人たちは、どのような現状なのでしょうか。
『朝には紅顔ありて』(大谷光真著)には、
と書いています。
一個人の意見ではない。これが本願寺門主の著書に堂々と書かれているのですから、末寺の僧侶の布教の実態も、推して知るべしでしょう。
人生の目的を知らず、ゆえに生命の尊厳が分からず、今まさに死のうとしている人々に、果たしてこれで、どんな説得ができるのでしょうか。
これでは、自殺対策に僧侶がまったくお呼びじゃない現状も、当然ではないでしょうか。